川崎エクスカーション

 先日の土曜、ゼミの学生らと川崎区を中心に川崎を巡るエクスカーションを実施する。川崎については、小川一朗 2003.『川崎の地誌ー新しい郷土研究』有隣堂.がある。これはなかなかによい。とりわけ工業の分布や移転に関する魅力的な図が多数掲載されている。近年の変貌について、牛垣雄矢 2008. 川崎市における地域構造の変化―産業と商業地の動向より-.地理誌叢49:16-33. があり、参考とした。

 JR登戸駅に集合。駅前東側を眺める。駅前広場を巡り2階建て木造の飲食店、飲食店が入ったビルが並ぶ。東京都心から放射状に伸びる鉄道と南武線との接合駅の中でも、溝の口や武蔵小杉に比べると、登戸駅における商業機能の集積は明らかに劣る。駅のすぐそばにおいても戸建て住宅が目立つ。駅前再開発が進行中とのこと、完成の暁には、どのような変貌がみられるだろうか。

 南武線に乗り、川崎方向へ。住宅、とりわけアパートと思しき低層の集合住宅が目立つ。時間の関係でパスした溝ノ口を過ぎると、規模の大きな高層マンションがここそこに現れてくる。武蔵小杉に近づくほどに、合わせて工場用地が増える。芝を敷き詰めた敷地に新しい瀟洒なビルが建っている場合が多い。先の2つの文献によると、各企業は生産の拠点を外部に移転し、研究会開発拠点を残しているとのこと。孫引きだが、川崎市における全産業従事者に占める教育・学術研究機関従業者の比率は13.6%で、なんと全国1位である(牛垣、2008)。川崎といえば何かを生産する工業、というイメージが強い。したがって、この「1位」には学生らも驚いた様子。

 武蔵小杉で途中下車。大学から生田緑地の向こうに見えるスカイラインがここである(と、いうと、学生らは、「あぁー、そうか、、、」。おいおい、地図なり実際に行ってみるなりして確かめろよ、と思う。ちなみに私は一度、大学の帰りに車で立ち寄り済み)。武蔵小杉は、元来、中原街道が多摩川を丸子の渡しで渡った後の街道沿いの町。この旧街道沿い周辺には、雑然とした昔ながらの飲食店が並ぶ。一方、東急東横線とJR横須賀線の間には、高層マンションが林立する極めて特異な景観がみられる。川崎まちづくり局によると、20階以上のマンションで11棟あり、現在1棟が建設中である。歩いてみると、これらが密集しているわけではなく、間隔をおいて建てられ、緑も多くゆったりとしている。武蔵小杉東急スクェア、グランツリー武蔵小杉、ららテラス武蔵小杉といった有名テナントが入った単価の高い商業施設も駅周辺に立地している。「ニコタマみたいですね」と一人の学生が言う。この感覚はよい。 なんでも武蔵小杉は、これまで神奈川県内の住宅地価1位の横浜市中区山手町を抜いて、1位となったという(要確認)。元々、東急で渋谷、目黒へ一本でアクセスでき、加えて、2010年、横須賀線の武蔵小杉駅ができて、品川・東京方面、そして、湘南新宿ラインで、渋谷・新宿・池袋へのアクセスもよくなった(南武線もあります!)。それに加えて、少数の企業が所有していた広大な土地があった。豊洲など湾岸エリアと似ている、と述べた学生がいたが、湾岸エリアでは、干拓によって広大な土地を獲得することができたわけである。

 武蔵小杉駅は、旧来、南武線ではグラウンド前駅、東急東横線では工業都市駅であったという。すなわち、東京という都市の拡大とともに、広い面積を必要とするグラウンドや工場が周辺へと移動し、武蔵小杉周辺にもそれらが立地していたことになる。さらなる都市化、都市の拡大により、そして産業構造の転換により、グラウンドや工場はさらに外方(あるいは海外)へ移動し、土地利用の変化、とりわけ居住地への転換が生じたといえる。ここにおいて、居住地としての大きなイメージの逆転があるといえよう。良好な(ハイソな?)住宅地としての武蔵小杉のイメージは、実際のアクセスの良さや住居の質の高さからだけではなく、デベロッパーによるマーケティング戦略によるところも大きいかもしれない。

再び南武線にて、川崎方向へ。右手にみえる渡り廊下で結ばれた高層ビル2棟はNEC多摩川ルネッサンスシティ。ここもまた研究開発拠点である。鹿島田駅前にもまた、高層マンションが数棟。武蔵小杉の開発とそれによる価値の上昇が、周辺地域に及んでいると言うことではないか、と言うと、「横須賀線の新川崎駅が近いですからね」と返す学生。こういう切り返しはうれしい。

 川崎駅の東西を結ぶコンコースは、待ち合わせの人、行き交う人でごった返している。まず西口のラゾーナ川崎プラザへ向かう。2006年に、東芝の工場跡地にオープンしたこのショッピングセンターは、約300店舗を有し、売り上げ日本一(約700億円、2011年)のショッピングセンターであるという(立澤芳男 2013. 立澤芳男の商業施設見聞記|第2回 ラゾーナ川崎プラザ. ハイライフ研究所. http://www.hilife.or.jp/wordpress/?p=7481)。「売り上げ日本一」に学生らは驚く。なぜ、これほどの売り上げを誇るのだろうか、と問う。元来、東京近郊地域は、人口に比して商業施設は少なかった。東京のもつ商業機能に依存し、顧客が東京へ流出していたわけである。商業施設をそこにつくれば、顧客はいる。一方で、近郊に立地していた工場が、より外縁部へ、あるいは海外へ移転することで、商業施設のための用地が生み出された。ここラゾーナ川崎プラザと同様、かつての工場用地を転換して商業施設とする例はここそこにみられる(埼玉県南部にも多い)。ラゾーナの場合は、立澤(2013)によると、商圏は地元、川崎区、幸区にとどまらず、南武線沿線、そして、大田区や品川区にまで広がっているという。東京へ消費者が流出していた状況から、東京から流入するような逆の流動が生まれているわけである。

 工場用地の転換は、商業施設へばかりではない。このラゾーナの東に隣接して、高層マンションが建てられているが、これも東芝の跡地であり、ショッピングセンターと併せて開発されたものである。さらにその東のオフィスビル「ソリッドスクエア」は明治製菓の工場跡地に建設された。生産の拠点である工場が、研究開発拠点へ、商業・業務施設へ、そしてまた、住居へと転換する一方、小川(2003)によると、そのほか、学校に転換されたものも多いという。

ラゾーナに隣接する東芝未来科学館を訪ねる。 東芝と川崎との関わりについてなんらかの情報が得られるかと思っていたが、それについてはほとんどない。他の工場と同様、より広い敷地を求めて、東京から外方へ、ここ川崎に進出したと言うことか。原発までも造る東芝は、重電メーカーというイメージをもつが、日本初の電気洗濯機、電気冷蔵庫、自動電気釜を造るなど、由緒ある家電メーカーでもあることを、展示をみて知る。世界初のラップトップPCも展示されている。ちなみに、私が初めて買ったノートPCは、東芝製ダイナブックであった。dynabookJ-3000SS、価格は19万8千円、当時のF1レーサー鈴木亜久里がキャラクターに用いられてたことを覚えている。実は今また、ダイナブックを使っている。dynabook satellite T954、ハードディスクもなく画面もモノクロの初代ダイナブックとは隔世の感がある。  老若男女で賑わうラゾーナのフードコートにて昼食後、川崎駅東口へと移動する。日本の駅には表と裏がある。多くの場合、旧街道に沿って鉄道が敷設されてきた。 そして、駅の出入り口が、旧街道側に設けられることで、駅前から旧街道にかけて商業の集積をみる。一方、駅の反対側は、駅へのアクセスも悪く、開発されないままか、倉庫や工場が、あるいは住宅が立地する。やがて、この裏側にも駅の出入り口が開設されて、開発が進展することになる。駅への近接性といった点では、表側とは遜色はないので急速に開発が進むことになる。川崎の場合、西口ラゾーナ側が裏で、東口、旧東海道側が表といえる。川崎の場合、加えて、東口には、京急が通り、京急川崎駅もある。川崎駅東口前には、さいか屋や川崎ルフロン、川崎モアーズ、DICEなどといった大型商業施設が位置する。立澤(2013)によると、東口の大型商業施設としては、1951年の小美屋デパート開店が最初で、1956年にさいか屋ができる。1996年に小美屋デパートが閉店し、跡地がDICEとなった。そして、さいか屋は、この日、閉店セールをやっており5月いっぱいをもって店をたたむという。また、1988年に西武と丸井を核としてできた川崎ルフロンから、2003年に西武が撤退している。このように旧来の百貨店が次々と撤退してきてはいるが、その跡地がまた別の様態のショッピングビルとなるのは、東京近郊ならではのことではないだろうか。

 川崎駅東口では、閉店セールをやっているさいか屋の前を通り、チネチッタ通りにまずは向かう。ここは今回、楽しみにしていたところでもある。立澤(2013)によると、この通りには、1987年、シネマコンプレックス「チネチッタ」が開業する(日本初とのことだが、ほかでも日本初を主張しているところがある(Wikipedia))。そして、2002年に、映画館、ライブ・ホールに加えて、物販店や飲食店、スポーツ施設などを有する複合商業施設「ラ チッタデラ」として再スタートした。ラ チッタデラはイタリア語で小さな街、イタリアの町並みをイメージして建物の外観、石畳の通りが造られたという。歩いてみると、それっぽい雰囲気。土曜の午後ということもあり、歩く人も多く、通りに面するカフェテリア、レストランのテラス席で、談笑する姿がみられる。この地に詳しい同行の学生によると、少し前までは、閑散とした通りであったとのこと。実際、西口のラゾーナの開店などの影響があるようである。確かに借り物の街並みであり、景観のイミテーションである。川崎という土地に根ざしたものでもなく、企業によって造り出されたものである。某巨大テーマパークもしかりである。だが、そこには、イミテーションと知りつつ、あえてその中につかの間、入り込んで楽しむ成熟した消費者がいる。街中の商店街もまた、テーマパークのように、一時の夢の中に誘い込むように仕掛けなくてはいけないのではないか。

 この複合施設ラ チッタデラが位置するチネチッタ通りの前後、そして横町にも、クラフトビールを飲ませる店など、小洒落た飲食店ができている。旧来の商店、飲食店もあるにはあるが、周辺への「イタリアの小さな街」というテーマの波及がみられ、通り全体、そしてこの地区一帯で、いわゆるジェントリフィケーションが進展しているようにみえる。川崎小川町バルとして、イベントを開催、プロモーションもしており、これには行ってみたい、と思う(http://lacittadella.co.jp/ogawachobar_map/#stacktitle1)。さて、チネッチッタ通りから横丁に入って、ラ チッタデラの運営会社チッタグループの歴史を紹介する歴史ギャラリーをみつけ、のぞいてみる。この会社は、1922(大正11)年に、日暮里で映画館の経営を始め、1936(昭和11)年には川崎で、そしてその後も各地で映画館を開設した。昭和30年代のこの地区の地図が展示されていたが、川崎映画劇場、川崎スカラ座、川崎名画座、川崎大映、川崎東映、川崎日活など多くの映画館が立地していた。加えて、スケートリンクなどをもつスポーツセンターやボーリングセンターがあり、バーや喫茶店もある。川崎駅前にあって、この地区が娯楽の場であり、それが今日まで、かたち(景観)を変えて持続しているともいえる。一緒に見学していた学生らに、「誰か、ここをテーマに卒論を書いてみたら?」

  チネチッタ通りを後に、銀柳街へ。某学生は、行くのが怖いという。彼にとっては、治安の悪い場所であり、近づきたくないところであるらしい。土曜の真っ昼間、そんなことはないだろうと無理矢理連れて行く。案の定、アーケードのあるしごく普通の商店街。「普通」と言っても普通ではないかもしれない。駅前のアーケードのある商店街であるからには、ある意味、その街の中心商業地であっただろう。しかし、今、目前にしている商店街は、どこにでも見かけるチェーンの飲食店やドラッグストアやカラオケ店、、、。地場の老舗の物販店などはみられない。それなりに歩く人で賑わっており、シャッター通りにはなってはいないが、こうした状況は、商店街の衰退を示しているともみてとれる。ドイツの中心商業地でもみられるように、金太郎飴的な同じような店舗構成の商店街が各地にできているのではないだろうか。銀柳街から脇道に入ると、歓楽街、昼間から営業している店もある。けっこうな規模であり、この機能の集積は大きい。

 やがて我々は旧東海道にでる。ビルが建ち並び、すでに宿場町の面影はない。駅周辺との競合から商業の立地も乏しく、マンションの建設が進んで居住機能の強化が進む。街道に沿って間口が狭く奥行きが長い細長いマンションが目立つ。宿場町の地割りが今日のマンションの形態を規定しているわけである。街道沿いに沿って東京方向に歩くと、都市銀行の川崎支店、川崎信用金庫の本店をみる。これらの存在は、かつて旧東海道沿いが、街の「中心」であったことを物語ってくれる。川崎信用金庫の広場では、女性ボーカルが歌う。川崎宿の中でもこのあたりはいさご通りといい、月に一度、若いミュージシャンによる無料野外コンサート「いさご通り街角ミュージック」を開催しているようである(http://ameblo.jp/isagomusic/)。あまり観客も多くなく、街づくり、街おこしとして効果のあるイベントともみえなかったが、我々の訪れた週末は、162回、163回にあたり、かなり長く継続しており、それなりに定着しているイベントといえる。音楽を通したまちづくりといえば、仙台の定禅寺ストリートジャズフェスティバルが有名である。 メジャーなミュージシャンを呼んできて、人を多く集めればよい、というわけでもないだろう。地元の人々が、地元の若い音楽家の声、音に耳を傾ける、、、それはそれでよいかもしれない。東海道かわさき宿交流館で展示をみて京急川崎駅へ。

 京急川崎駅から大師線に乗車する。列車は多摩川にほど近いところを東に進む。沿線には大小の集合住宅、大型店舗、やがて左手に工場、味の素である。鈴木町駅の出口、すなわち味の素の工場入り口には、工場見学のお誘い。今や流行の産業観光というわけである。我々は、次の川崎大師駅で下車する。京急はこの大師線を皮切りに路線を延ばしていった歴史を有しており、川崎大師駅前には、京急発祥の地を示すモニュメントがある。川崎大師駅を背にして、参道を東へ向かって歩く。広い参道にはところどころにくず餅やまんじゅうの店があるが、人もまばらで、門前町というには少し寂しい。肝心のお寺も前方にはみえない。やがて右手に寺の塀があらわれるが、入り口がない。塀に沿ってしばらく行ってようやく右手にむかう道があり、そこを折れて西に折り返すと仲見世通り、山門が顔を出す。仲見世には、飴を切る音、そして飴を売る声が響く。飴を売る店に加えて、くず餅やだるまを売る店が並ぶ。いかんせん土曜というのに、参詣の客も少なく賑わいに欠ける。山門をくぐり、境内に入る。本堂に加えて、五重塔などの建築物が広い境内に点在する。手水舎もあって、清める、って、はて、ここはお寺ではなかったか?神社ならではと思っていたが、寺にもあるのですな(*寺でもあるものとのこと)。本堂でお参りをしていると、隣で手をたたく音が、、、はて、ここはお宮さんか、、、。「神様、仏様」というように、日本人は、神様も仏様も区別せず同じように考えてきた。かつて、伊勢神宮にお参りした折に、隣で手を合わせていたおばあさんが、「ナムアミダブ、ナムアミダブ」と唱えていたことに驚いたものである。まさに日本人の宗教観を示している。

 川崎大師と言えば、「厄除け」、神奈川在住でもないのに、そういう認識があるのは、あちらこちらで、その宣伝を目にしていたからであろう。川崎大師と言えばまた、「初詣」。これもまた、宣伝を見たり聴いたりした記憶がある。なんでも、初詣が、氏神様など地元の地元の神社仏閣で行うものであったところに、電車で遠出して詣るようなスタイルは、この川崎大師が最初であるという(Wiki)。宗教施設によるマーケティングは、何も新しいものではなく、江戸時代にも行われていたようである。2年前に、三木一彦氏の近世三峰信仰に関する講演を聴く機会があった。御師によって関東一帯で信者獲得のための活動が行われており、江戸時代において既に今日と同じように、マーケティング、営業が行われていたようなものである、と思ったものである。川崎大師も、鉄道の敷設など時代の変化に対応したマーケティングを行いつつ、参詣客を維持してきたのであろう。

  川崎大師からの帰りは裏口からでて、格子状の区画をもつ戸建てが主の住宅地を駅へと進む。川崎大師駅から臨港バス「川23」川崎駅前行きバスに乗車、桜本で下車する。カラー煉瓦を敷き詰めた桜本商店街を西方に行く。スーパー、惣菜屋、衣料品店など個人商店が並ぶ近隣商店街。その中に、韓国食材店や、チマチョゴリのイラストを掲げた焼き肉店があり、街角にハングルで書かれたタウン誌が置かれている。このタウン誌「生活情報新聞ハント2015年5月号」は、新大久保の地図が掲載されるなど都内の情報が多く、この地域一帯のためだけの情報誌ではない。記事には、韓国との輸送業務や航空券の宣伝、あるいはまた、日本語教室、韓国語教室の宣伝があったりする。そしてまた不動産情報も載っている。これらはどのような人々を対象としたものだろう。いわゆるニューカマーと呼ばれる人々向けか?商店街を過ぎてしばらくして左に折れる。一直線の通りの入り口にはゲートがあり、KOREA TOWNと表示されている。川崎市観光協会のホームページには、「数多くの焼肉店や韓国食材店が並ぶコリアタウンは、地元ではセメント通りと呼ばれて愛されています。」とある。しかしながら、通りを歩いても、近年、更新されたと思しき2階建てないし3階建ての戸建住宅が並ぶだけで、一向に、韓国食材店も焼肉屋も現れない。これには学生らも拍子抜け。この通りの終わり、産業道路にでるところの両側に大きな焼肉店があった。

産業道路は片側三車線で、その上には首都高横羽線が走る。土曜日にも関わらず、多くのトラック、乗用車が行き来する。京浜工業地帯の大動脈ならでは。産業道路に沿って西に向かう。産業道路沿い右手は、自動車修理工場やスクラップ工場など、中小の企業が並ぶ。その奥は住宅街である。一方、左手、道路の向こうは工場らしき大きな建物。歩道脇には缶やボトルなどのごみの散乱がみられる。
 鋼管通りで左に折れて浜川崎駅へと向かう。鋼管通は地名であり、日本鋼管(現JFEスチール)にちなむ。先の小川(2003)によると、日本鋼管は1912年に設立され、ここ川崎の臨海部、若尾新田において1914年に操業を開始したという。駅への道すがら、Thinkという看板を目にする。これだけでは何が何だかわからない。何でも、元々は、JFEスティールの研究開発拠点であった施設を、川崎市と提携して、川崎市第3のサイエンスパークとして、入居者を募っているところであるらしいThinkホームページ)。この臨海部においてもまた、研究開発の拠点がつくられているわけである。一方、近隣の大島新田では、1917年に浅野セメントが操業し始める。この浅野セメントの創始者、浅野総一郎は、1912年に鶴見埋立組合を創設し、1914年から沿岸の浅瀬の埋め立てを開始して、1928年までに約500haの新たな用地を得たとのことである。

まさに工業地帯にいると思わせる雰囲気が漂うJR浜川崎駅から鶴見線にて、そうした埋め立て地のひとつ、扇町へと。週末でもあり、車内は閑散としている。少ない乗客らは、扇町駅に到着すると、カメラを取り出し、駅や車両や、そこにいる猫を撮り始める。かくいう私は、川崎ではなく横浜になるが、海芝浦駅へ行こうと提案したが、同行の学生のほとんどが既に行ったことがあり、「何しに行くんですか?」と即座に却下されたのであった!扇町駅前は、商店街もなく戸建てもほとんどなく、駐車場、空き地が目立つ殺風景な雰囲気。扇町は、埋立地ではあるが、運河で囲まれ島状になっている。そして、そこには昭和電工(元昭和肥料)や、JR東日本の発電所、三井埠頭といった港湾施設が立地している。週末ともあって人通り、車の往来もなく閑散としているが、平日は活気のある様をみることができるのだろうか。最近は、「工場萌え」とか言って、工場の風景を好み見に来る人らがいるという。また、企業側も生産などの現場を積極的に解放して見せようとする傾向にある。加えて、 産業の進展を支えてきた施設や道具を、産業遺産や近代化遺産として、保存し、かつ開放しようという動きもあり、川崎市でも産業遺産・散策マップを作り公開している。この扇町にもその対象がいくつもある。「工業」にこれまでとは180度異なる価値が見いだされたともいえるが、工業化の初期においては、煙を吐き出す工場は、進歩やダイナミズムの象徴であったわけで、実のところグルリと元に戻っただけのことかもしれない。

  三井埠頭から臨港バス・川22にて川崎駅前へと戻り、解散。数人にてチネチッタ通りに戻り、ビールを飲む。