9月27日
鉄道博物館の西、鉄道と東西の主要道にはさまれて野菜を中心とするマーケットがある。鉄道の積み卸し駅に隣接し、貨物にて主として中国から輸送されてくる野菜や果実の卸売り市場でもある。道路に沿って細長い建物に小売りが入り、その周囲に卸売りの店が配置されている。小売りの入る建物の中央に通路が走り、その通路から直角に袋小路が走り、その両側に各店舗がある。建物の西側は、規模の小さな野菜を売る店が並ぶ。それぞれ、ジャガイモ、タマネギ、ニンジン、ビート、キャベツを売る。これらの野菜を売る店が一般的である。建物中央部においては、店の規模が大きくなり、ネギ、ナス、ダイコン、トマト、チンゲンサイ、モヤシなども売る。通訳のMさんによると、モンゴルでおいしい野菜をつくるとして知られているDevdhil社のトマト、キュウリ、パプリカを売る店もある。その他、ブランドもののトマトも売られるなど、モンゴルにおいてもアグリビジネスは浸透しているようである。この建物中央部から東部にかけて、ソーセージ類がみられるようになり、東部では、缶詰、その他食品が売られるようになる。館内は客と品物を運ぶ業者でごった返す。建物の外では、米・小麦を売る業者がおり、また、客から車まで購入した物品を背にしょって運ぶ荷役が行き来している様子を見ることができる。1回200T前後で働いているという。中国、ロシアからの輸入もある中で、モンゴル産であることは明示されており、産地に対する関心が高いことが伺える。
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イタリア料理店にて昼食後、空港へ。15時着。アエロ・モンゴリアのカウンターへ向かう。2つあるチェックイン・カウンターの前には雑然と人が並ぶ。段ボール箱をいくつも抱えたモンゴル人に加え、民族衣装を身にまとった白人らの姿もある。どこに並んでよいか戸惑いながら、後方に位置する。列はなかなか進まない。ふとみると、横方向からどんどんと人がカウンターへと向かう。「おいおい!」と思っていると、Mさんは、すーっと前方へ移動し、我々を招き寄せる。モンゴルでは、列をつくって待つ習慣がないとのこと、Mさんもまたモンゴル人であった。
搭乗券は名前も座席も手書きで、名前の欄にはMitsuruのみ書かれている。ちなみに、預け入れ荷物は10kgまで、機内持ち込みは5kgまで。チェックイン時に双方を秤に載せて、重量をチェックし、機内持ち込み荷物にはチェック済みのチケットが配布される。セキュリティ・チェックにてひっかかり、カバンの中身を調べられる。午前に市場にてKさんが購入した豆腐が原因であった。係員は笑いつつ、OKをだす。先日、ウィーン空港でチーズを没収されたばかり、本当はOKではいけないだろう、と不安になる。チェック後、ホブト周辺で農場を経営するという女性とMさんが知り合い、彼女の農場見学を受け入れてもらう。
ターミナルからバスで、50人乗りプロペラ機Fokker50に向かう。座席は満席、右側に座席をとる。眼下は、秋のモンゴルの赤茶けた大地が続く。ウランバートルを発ってしばらくして、大きさの検討はつかないが、方形の区画が平地に連なるのをいくつかみることができた。農地かどうか不明。また、東西に走る山稜において、北向き斜面に森林があり、南向き斜面は裸地となる非対称斜面を数多くみる。岩石砂漠、砂砂漠と砂丘列、浸食平野と、なかなかお目にかかれない地形を目にする。
ハルアス湖上空を経て、ホブト空港着。日はちょうど山かげに沈む頃、タラップを降りると身が引き締まる寒さ。ホブトは山に囲まれた盆地、空港の周囲は既に緑の草も枯れた茶色の平原が広がり、岩石の峰が周囲に連なる。まだ青い西の空の向こうにアルタイの雪の峰が望まれる。飛行機を降り立った観光客は自らを含めて、皆、カメラを四方に向けている。イメージしていたモンゴルそして中央アジアにきた感を強くする。
ホブトにて車の運転を願うL氏と会い、レストラン、売店などの施設がなにもない田舎の駅舎のような空港建物内で預け入れ荷物を待つ。が、やがて周囲に誰もいなくなる。聞くと、外での受け渡しになるとのこと。外へでると、空港構内と空港前駐車場とを隔てる金網のゲート前に荷物を待つ人々が集まっている。夕闇の中、荷物を待つがなかなか運ばれてこない。やがて、空港構内を荷物を積んだ運搬車がゲートに向かってやってくる。ゲートがわずかに開かれ、そこにひとつひとつ運搬車から荷物が取り出され、荷物の照合番号が読み上げられ、番号を照合した後、受け渡される。なかなかにはかどらず、「いったいいつになることやら」と思いながら眺めていると、ゲートが大きく開かれ、人々が構内になだれ込み、運搬車から荷物を取り出し始める。あっけにとられて見ているうちに、L氏が我々の荷物を回収してくれていた。
暗い中をホテルに向かう。宿泊するBuyant Hotelはホブトで一番のホテルという評判であった。Kさんと自分はそれぞれデラックス・ルーム37,000Tを、I君とMさんはスタンダード・ルームを予約済み。デラックス・ルームは、前室に、10畳ほどの居間と8畳ほどの寝室という異様に広いスィート・ルームであった。が、暖房が入っていなくて寒い、お湯が十分に出なくてシャワーも浴びられない、便器のふたが壊れている、部屋の隅にはゴミが落ちている、という状況であった。調度類も安っぽい。燦然と輝くが使えないイタリア製のユニットシャワーがもの悲しい。
20時にホテルにて、ホブト大学理学部地理学科日本語観光科の日本語教師Kさんと彼女の同僚と学生の3人と面談する。地元学を提唱し、「ホブトの声」というホームページを運営する。そのホームページをみて、Kさんがここを訪れることを決めた。出発前にみようとしたら、アクセスができず、未見。Kさんは、旅行でモンゴルを訪れてはまってしまい、その後、14年間、モンゴルに在住している。モンゴルの自然のすばらしさに惹かれたが、カナダのように人間の手の触れない自然ではなく、そこに人が住む自然の姿に魅入られたという。人がそこに住むからこそ、自然に活気が生まれるとのこと。最初の8年はウランバートルで、その後、ホブトに6年間住んでいる。ウランバートル在住時は、街の周囲の山々は緑の山であったが、近年はゲル集落が進出して、すっかり変わってしまった。ウランバートルへでかけてホブトに戻ってくるとほっとするという。ホブト滞在中の計画を立てる。明日は、北部山間地のカザフ族の集落へ、明後日は、ハルウス湖と農場へ、最終日はホブト大学を訪問することになる。昼の残りのピザと機内食としてだされたサンド、そしてビールで夕食とする。冷えるが暖房もなく、ツインの片方のベッドの掛け布団を重ねてしのぐ。
9月28日
日本語観光科の学生2人を乗せて、9時、ホテル発。まず、訪問する家で昼食をつくるための材料を買い出しにスーパーに行くも日曜日にて閉まっている。かわりに街の西に位置する市場へ向かう。その途中、燃料の牛糞をうる店に立ち寄る。3袋2千Tだが、現地で入手可能であろうことから買うのをやめる。市場の入り口では、一群の山羊が売られている。スイカを車のトランクに入れたまま売っているものもいるし、ミルクを売るものもいる。市場の中では、露店にて野菜が売られていた。それぞれ生産者が店を出している。ジャガイモ、タマネギ、ニンジン、トマトなど、ウランバートルでみられると同じ基本的な野菜群がみられる。この地域の特産、スイカを売るものもいる。野菜を売るものの中には、ニンジンやキャベツを千切りにして酢漬けにして瓶に詰めたり、同じくキュウリのピクルスを瓶詰めしたりして、あるいはスイカのジャムを瓶詰めして棚に並べている。こうした付加価値をつけた農産加工品も農家の収入の一助となろう。また、冬季における野菜の保存方法として酢漬けが行き渡っていることを示唆している。パンは屋内店舗にて購入。冬季は寒冷なため、野菜も屋内で販売されるとのこと。
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ホブトの街は、方形の中央広場を核とする。その周囲に、劇場、役場、その他公共施設が立地し、中心近くに社会主義時代に建設された5階建ての高層アパートが建ち並ぶ。そして、中央広場から南に走る、ポプラの並木をもつメイン・ストリート沿いとその周囲に戸建て、ゲル家屋が取り囲む。基本的には、ウランバートルと同じように、社会主義時代の都市建設を反映した都市形態をもつといえる。
車は、ホブトから北へ、盆地の北斜面を登る。最大径5㎝ほどの角張った礫から砂に至る多様な大きさの砂礫が混合した斜面をいく。道路は舗装されていない。凍結融解を繰り返すことによって風化が進んだ結果、こうした砂礫がつくられ、これらが徐々に重力により下方に移動することによって、いわゆるマス・ムーブメントによって、形成された地形である(と、学生時代に地形学で習ったはずである)。10kmほどで峠を越える。再び、同じような砂礫に覆われた盆地とそれらを取り囲む植生のない岩石の山々が取り囲む光景をみる。いくつかの峠を越えては同じ光景が目的地まで繰り返される。
道路が走る砂礫で覆われた緩斜面上では、背の低い灌木が生えているところも多いが、草地とはなっていない。そこでは、山羊や羊、牛や馬が放牧されている。元来の植生か、あるいは過度の放牧ないし気候変動によって生み出された植生か不明。山の麓に、石積みの小屋もみられる。それらは、遊牧民の冬の住居であるという。小さな湖やShura
golといった川の周辺には草地が広がり、ゲルも立地している。HongorOlon golを渡り、10kmほどいったところで、鹿石に案内される。青銅器時代の遺跡である鹿石は、直立する緑色片岩(要確認)の板に太陽や鹿、道具のモチーフが描かれているものであるが、風化が進み読み取りが困難である。付近にその後の時代におけるこの地方の有力者の墓があり、斜面下部にも青銅器時代の絵が残されている。後者は風化に加えて落書きがなされ状態は極めて悪い。これら遺跡の南方には朽ち果てた石壁がここそこにみられる。かつて集落があったが放棄されたものと思われる。
目指すカザフ族の集落に着いたのは既に13時を過ぎていた。この集落は、ホブト県からバヤン・ウルギ県に入ったところ、北には標高4165mのTsambagarav、南には、3984mのSayryn
uulが、東西にも3千メートル級の峰が連なる中の盆地、ongorOlon golの支流が合流する地点に位置する。湖も点在する湿地帯の中の小高い丘に2戸の家屋、少し離れた草原に数戸が確認できた。山々の峰は雲で覆われているが、中腹まで積もった雪が臨まれる。この地域周辺出身の男子学生の案内により、ジープにて渡河して、1戸の家を訪ねる。訪れる予定にしていた家族は離れた村に引っ越してしまったとのこと、この家でお世話になることとする。
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K家は、世帯主と妻、息子の三人家族。息子は家畜を追って留守。住居は縦横約6mx12m、高さ2m強の広さで、泥ブロックの壁、枝を編んだ上にビニルシートを載せた天井からなる。ここは冬季の住居であり、夏には移動していくという。入り口は、長辺の右端にあり、入ってすぐに前間があり、家畜の内臓が壁にかけられている。前間から左に室内に入ると、左手にテーブルと椅子、右手にストーブがある。ストーブは煮炊きにも用いられ、燃料は牛糞である。おばあさんは、深い鍋でパンを焼いていた。ストーブの背後には奥の間と隔離するようにブロック壁が設けられており、ストーブからの筒がそれに延びている。ストーブの煙が通ることで壁が暖まり、暖房装置の役割を果たしている。奥の間の壁には織りの絨毯が掲げられている。また、イスラム寺院のポスターも掲げられており、イスラム教徒であることがわかる。
鍋と水、包丁などを用意してもらい、Kさんの指図で、調理を始める。モンゴル人男性は、椅子に座って談笑、日本人男性は包丁をもつ。牛糞の火力は結構強い。Kさんレシピの「ポトフ?」が完成。すぐ隣に住む娘さんとその子3人、および少し離れたところに住む親戚の女性とその娘も加わり、食事とする。ラグチャポルジュ氏より、牛乳から作ったというお酒の差し入れがある。市場で購入したパンと誰かがもってきたソーセージも加わる。ポトフは好評であった。
カザフ族の歌謡を所望する。それぞれが歌うこととなり、まず、日本人が「春」を合唱する。そしてカザフ族の面々、同行してきたカザフ族以外のモンゴル人がそれぞれ歌う。通訳のMさんは、モンゴルでもマジョリティのハルル族であり、同行の学生2人はそれぞれ異なる民族であるとのこと。マジョリティもマイナリティもなく、互いを受け入れ、受け入れられているさまをみる。広大な土地に移動しながら生活する遊牧民にとって、草原に灯る民家やゲルの明かりは時に命の綱であり、それが誰であれ訪れる客人をもてなすことは当然であるのかもしれない。むろん、彼らの子供らが、カザフスタンで学び、また、カザフスタンで暮らすという現実もまた一方である。
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3時過ぎ、ホブトに向かって出発する。K氏は写真を送ってほしいと、住所をノートに書き込む。Mさんも実際に届くかどうか懐疑的であった。最初は、日本のことはよく知らないといっていた氏ではあるが、「日本はドリームだ」と発言する。かつてルーマニアのトランシルバニア、シビウの道ばたで出会った老人の言葉を思い出す。「日本はレジェントだ」と。
途中一度の休憩のみで、ホブト着。宿近くのレストラン「大モンゴル」にて夕食。近いとはいえ、通りに街灯はなく真っ暗な上に、蓋のないマンホールが待ちかまえていたりする。食事は、ウランバートルから比べるとずっと安く、1500T前後で十分。カラオケルームが併設されており、歌声が漏れてくる。レストランから宿への暗い夜道。空は満天の星、天の川が白く光り、流れ星が走る。