ウランバートルから列車で北に

3月5日

 15時30分、ウランバートル空港着。周辺の山々はうっすらと雪化粧をしており、秋とはまた違った趣である。機内アナウンスは、マイナス10度と告げる。燦々と注ぐ日の光からは想像ができない。ウランバートルの空港には、秋に日本に来たウランバートル技術工科大学のG先生と第53学校教頭のT先生が思いがけず出迎えてくれる。前回に引き続いて通訳をお願いするMさんも来てくれていた。空港の外に出ると身を切るような寒さ。これでも、モンゴルの人々にとっては、厳冬期よりもずっと暖かくなって春が近づいたと思う陽気とのことである。実際、思ったより、帽子もかぶらず軽装の人が多い。

 まず、両替所へ。銀行ではなく、掘っ立て小屋のような小さな両替商。こちらの方がレートがよい。1万円で15万8千T。秋には、1万円で11万T前後であったのでモンゴルTも下がったものである。Mさんによると、経済危機はモンゴルにも及び、建設中のビルが工事中止となったり、リストラが進み失業者が増加するなどしているという。

 続いて、携帯電話会社へ。以前の携帯は長く使っておらず無効になっており、その再開手続きをし、8000Tの通話料を追加する。携帯の契約をする1階フロアの2階は携帯電話や関連グッズを売る小さな店が入っている。家をでるときに見つからなかったバッテリーを購入。5000T。NOKIAと記されているが、以前のものとはデザインが異なる。偽物ではないか、爆発はしないかと少々心配である。街は相変わらず車で溢れている。止まっている車には地肌が隠れるほどに土埃か煤?が積もっている。今日は比較的強い東よりの風が吹き、そう埃っぽく感じはしないが、風のない冬季は相当の大気汚染があると思われる。

 明日は、ウランバートルの北方、モンゴル第2の都市ダルハンへ列車で行くことになっている。その切符を買いにウランバートル駅に向かう。駅舎の左隣に切符売り場の建物がある。切符購入にはパスポートが必要である。ダルハンまで一人15000T。コンパートメントを頼む。ホームにはちょうど寝台車を連結した長距離列車が止まっていた。ホームには、飲み物などを売る即席売店ができている。明日は10時20分発。

 Kさん所望のムートンコートを探して何軒かを回った後、定宿となったフラワーホテルには、18時30分頃に到着。いつもの日本語を話せるフロントが出迎える。モンゴル料理を食べに行こうかと言っていたが、O君はお腹の調子が悪いとのこと、他の2人は日本から食料を持ってきており、各人で食事をとることになる。ホテル内の日本食屋で、天ぷらうどんと半チャーハンのセット。7000Tなり。

3月6日

 晴れ。ホテルの窓の外のウランバートルの街にはうっすらともやがかかる。通訳のMさんとともに、9時にホテルをでて、ウランバートル駅に向かう。30分ほどで到着。駅には多くの人が行き交う。レストランにて、列車の中での昼食とするピザ、肉まんを購入。トレイに入った駅弁のようなものも売っていた。ピザ1800Tに対して、カツレツの上に目玉焼きを載せ、フライドポテトなどの添え物をつけたこの駅弁は1500Tと安い。

 

 ホームには、中国から到着したと思われる列車が止まっている。20両ほどの長大な編成。大きな荷物を抱えた人々がホームから駅舎、そして駅前へと流れていく。やがて構内用ディーゼルに牽かれた我々の乗る列車が10両編成で入線してくる。反対方向から2連のディーゼル機関車が走ってきて連結。列車に乗客が押し寄せてくる。それぞれの車両の入り口に女性の駅員が立ち、検札を行う。我々は先頭車両に乗り込む。コンパートメントで、向かい合わせの席にそれぞれ4人ずつ座れるくらい、また横になって寝られるほど広い。実際、毛布、枕も用意され、昼間でも寝て過ごす人も多いという。中段ベットも折りたたまれており、これをだせば都合、4人用寝台コンパートメントとなる。

 ベルもなくゆっくりと列車は出発する。駅周辺は貨物ヤードや工場など、よくみかける風景が広がっている。列車はなかなか加速せず、時速30km程度で次の停車駅についた。その後も40km前後でのろのろと、平行する道路を走る自動車に抜かれながら走る。線路から約30mほどのところに柵が設けられている。家畜が線路内に入ってくるのを防ぐためと思われ、モンゴルならではの光景ともいえる。列車は西に向かって走り、アパート群の途切れるあたりにゲル集落が拡がっている様子をみることができた。一部でレンガ造りの住居も見受けられたが、我々が訪れているバヤンズルフ区のゲル集落よりも、経済的状況は悪いと思われた。ゲル集落として、その正確をひとくくりでとらえることはできない。

 列車は、薄く雪に覆われた標高の低いなだらかな起伏の山々の間を抜けていく。隣のコンパートメントの子が時折顔をだす。お菓子をあげたり、写真を撮ったりしているうちに会話が始まる。その1才の子の父は、経営大学院大学Academy of Managementの経済のM先生であり、ウランバートル農業大学の先生である奥さんともう一人の娘と共に、Tunhelの両親を訪れるところであるという。旧正月にこうして親類を訪問する習慣がモンゴルにはある。

 彼は大学で教えるかたわら、ウランバートルから100kmほど離れたところにチャッツラガンの樹園を経営している。家族親戚併せて10人で10haを管理する。水は大きな井戸を掘り、水路で引き込んでいる。1本の木から10kgの実が収穫でき、100kgの実からは、3kgの油が採れる。この油は胃や肝臓の薬ともなるし、やけどや傷の塗り薬にもなるという。葉はお茶にもされる。1900年頃に日本から調査団がきて、チャッツラガンがどんな用途に使えるか検討したとのこと。チャッツラガンには90種のビタミンが含まれるとか。年間の売り上げは300万Tに上るが収益はそう多くない。というのも、実を中国の加工場に送り、油にした後にモンゴルに戻して出荷している。加工場を自前で持つには、300万ドルが必要である。日本から投資の話があったが、経営面積を100haにすることが条件であった。それには10年はかかるであろうとのこと。

 彼の勤めるAcademy of Managementは、大学院大学であり、役人や会社のマネージャーを養成することを目的とする。学生の平均年齢は40才と高い。転換後の10年前には自ら会社を立ち上げようとする学生が多かったが、今では役人志望が多いという。

 モンゴル人気質についての話となる。モンゴル人は、成功や成果は自分のものにしたがり、失敗は他人におしつける傾向があるという。また、グループで役割分担をしつつ仕事をしていくことができないという。これは、個々の家族が離れて生活していた遊牧民時代の意識が残っているからであろうとのことである。

 モンゴル経済の将来については、総人口270万人、労働人口80万人という小さな規模ということもあり、資源に依拠することになるであろうという。今日のモンゴルでビジネスを行おうとすると必ず賄賂が必要となるとのこと。例えば、道ばたで売店を一つ作ろうとしても膨大な手続きが必要であり、その一つ一つを円滑にこなすために袖の下をつかませる。

 彼自身はウランバートル出身であり、自然を愛する。地方に出かけると、遊牧民が自然を破壊している様子をみて怒りを覚えるという。Kさんが、ウランバートルの街自体もそう自然を大切にしているとは思えないというと、それは、今日のウランバートル市民のうち80万人が地方から流入してきた層であり、彼らのマナーが悪いからとのことであった。例えば、彼らは、車の運転を、あたかも馬に乗っているかのように街の中でやっているそうである。

  他の車両にいってみる。我々の乗る先頭車両と次の車両は毛布付きコンパートメントでいわば一等車、続いて毛布なしコンパートメントが一両、残りの車両は、3人掛けクロスと一人掛けクロスが通路を挟んであるいわば三等車両となる。ここの料金は、一等車の3分の一となる。子供を連れた家族連れ、中年のグループなど、トランプをしたり、横になって寝たり、それぞれ思い思いに過ごしている。各車両には給湯器が備え付けられており、お茶やコーヒーを飲むことができる。その燃料には石炭をつかっているようで、デッキには石炭の袋がおかれている。

 列車は北へ向かう。峠越えの標高の高い山地では、白樺やカラ松の木々が生えている。また、北に行くに従って、裸地よりも草地がより拡がってくるように見受けられた。降水量が多くなってくるのか、放牧の状況がことなるのか。

 途中、丸太を積んだ貨物列車とすれ違う。Tunhelの駅前では、製材後のおがくずを山にして焼いている光景をみる。Zuunharraは、比較的大きな街であり、Mさんによると木材の集散地となり、ここからウランバートルへ送られるという。林業地帯か。

 それまで幅数百メートルのいくつもの河谷を走っていた列車は、ダルハンに近づくにつれて、山々を遠くに望むより広い平原を走るようになる。平原には森もみられる。ダルハン駅の手前、ダルハン2駅には、火力発電所やセメント工場などが立地する。

 17時半ダルハン着。ウランバートルより7時間。久しぶりの列車による長旅であった。ダルハン駅には、ホテルで紹介してもらった運転手の出迎えを受ける。駅前には社会主義時代の単調なアパート群が並ぶ。アパートの一部をホテルにしたり、ヘアサロン、パブとしたり、そられのけばけばしい看板が並ぶ姿は、チェコなど東欧の旧社会主義国の街の風景と共通する。Urtuuchin Hotelへ。1年前に改修したという部屋は、まだペンキのにおいがするが、こぎれいで快適である。

 チェックイン後に市場へ。ゲートをくぐると露店がある。18時近く、既に閉まっていたり、たたむ準備をしている店が多い。米や小麦粉を売る店が並ぶ横をホールに向かう。一つのホールには、ジーンズ、反物など衣類の店が集まる。もう一つのホールは肉や乾物など食料品、そして雑貨の店が並ぶ。倉庫のような細長い建物には幅2間ほどの店が並び、閉まってはいたが野菜をそれぞれ売るという。場内には、2階建てのビルがあり、その中には装飾品や衣料品店があったりする。外からはどこに何の店があるか皆目わからず、買い物をするには、何の店がどこにあるか知っている必要がある。これはホブトの市場でも同じであった。市場周辺の道路脇には、食料店や飲み物屋など小売店が並び、車や小型バスが発着、人の往来も多く、町の商業中心と見て取れる。

 Kさんがロシア料理を食べたいというので、地元の運転手に頼み、ロシア料理店のあるというロシア・ホテルへ。これも社会主義時代のアパートを改造したものであった。ホテルはあるが、レストランはなし。運転手は、我々がヨーロッパ料理を食べたいと思ったのか、テキサス・パブに連れて行く。テキサス・パブにロシア料理はあるはずもなく、結局、投宿するホテルのレストランで食べることとする。

 ホテルのレストランは5階。今日は地元の会社のパーティーがあるとかで、我々は別のアパートメント形式の部屋で食事をとる。我々の部屋は4階に割り振られており、5階のパーティー会場からは、音楽、歓声、靴音、椅子の音、、、11時で終わるというホテルの説明であったが、大きな歌声と共にパーティーが終わったのは12時。まぁ、そんなものでありましょう。Mさんによると、モンゴルの人は騒音をそんなに気にしないとのこと。

3月7日

 Kさん体調不良にてホテルにとどまる。9時20分頃、O君、Mさんとともに国境に向けて出発。Mさんのモンゴル版ウィキペディアによるこの地域の解説。ダルハンはダルハン県の県庁所在地である。ダルハン県は、面積3275ha、人口9万人(現在では10万人)である。ダルハン市は1961年に、旧ソ連をはじめとする東欧諸国の技術・経済援助によって建設された街である。集合住宅を大通りに面して配置させ、その中に広いオープンスペースや、文化センターを置くダルハンは、まさに東欧諸国の都市建設を模している。ダルハンには、科学技術大学、農業大学、経営大学をはじめとして10の大学が立地し、教員数460人、学生数5200人を数える。また、モンゴル・ドイツ合同学校があり、ロシア語、トルコ語、ドイツ語、日本語が教えられている。セメント、ムートン、酒の製造業がみられるほか、農業も盛んで、畜産の他、じゃがいも、野菜も栽培されている。

 車は盆地東斜面を北へ向かって走る。斜面上及び盆地底において、建設用の砂利採取が行われていた。セメント生産もあいまって、ダルハンは建設資材の供給基地となっているようだ。運転手さんによると、郊外にはツーリストキャンプがあり、4月末より準備をはじめ、5月はじめより営業を行う。アメリカ、韓国、そして日本からも観光客が訪れるという。

 山羊や羊の放牧をみる。草が豊富な印象である。流水による浸食谷を持つ山地、松の木が点在する斜面など、やはり降水量が多い地域であるといえよう。Yeroo川など凍ってはいるが幅の広い河川の存在もそれを物語る。このYeroo川の流域、Yerooでは高品質の鉄鉱石を産出するとのこと。この鉄鉱石を搬出するためにYerooに向けて鉄道が建設中であった。

 Yerooへ向かう道路の分岐点手前で、道路通行料徴収ゲートを通る。500T。我々はYerooとは反対の西、Dulaanhaanへと折れる。Dulaan山の麓、Dulaanhaanは古くから景勝地として知られ、人々が訪れてきたという。村から山に向かって斜面を登ると、岩山が聳え、一方でYeroo川の谷を見下ろす眺めの良い場所があり、バンガローや休憩所、博物館が設けられている。体によい水がわき出る泉があり、水を汲みに訪れるものも多いという。30年、ここを管理してきた老人が、岩に描いた仏像がそれを見守る。この場所に至る緩斜面は、数十センチから1メートルにまで及ぶ径の礫を散らばらせるかのように載せている。かの老人は、ここはかつて湖であり、地震があったことによるというが、詳細は不明。

 幹線道路に戻り、北に向かう。道路沿いの谷底に方形区画の耕紀された農地が分散している。小麦やジャガイモ、キャベツ、ニンジン、カブなどの野菜が作られているという。麦は4月に播種、天水にて栽培し、9月には収穫される。近隣の遊牧民も牧畜の傍ら、野菜を栽培し、換金しているというが、この変化は興味深い。

 国立公園Tujiyn Narsに近づくにつれて、松が増え、密度の高い森林もみられるようになってくる。一方で、松がまばらにしか生えていないところも多い。不法伐採により、森林が破壊されたとのこと、植林による幼樹が道路に沿って並ぶ。Suhbaatarの手前で左に

折れて、「母の木」として広く崇拝され、ウランバートルからも参拝に来るという松の木を訪ねる。径1mほどの松の木にはびっしりとマフラーのかたちの青布が巻き付けられている。モンゴルにおける祈りのかたち。線香に火をつけ手を合わせて願いをかけ、木の周りを3周する。実はこの木から50mほど離れたところに元来の「母の木」がある。それは朽ちて横たわっており、現在の木がその代わりを努めている。横たわった元の木も、線香の箱を積み上げた塀で取り囲まれ、旧正月の料理が供えられ、今日でも崇拝されている。我々の他にも2,3組の参拝者がいた。


 Suhbaatarの町に到着。Mさんはここをセレンゲと呼ぶ。セレンゲは県の名称であるが、街の名称としても使われているらしい。国境の景勝地「美しが丘」へ行くための許可証をもらうために軍事務所へ。国境警備隊でだすとのことで、そのビルへと向かう。パスポートを渡して手続きをする。15分程度待つ。国境警備隊の隣の食堂にて昼食。ボルシチ(もどき)とモンゴルパンを食す。

 食堂前で、G先生の知人で、Altanbulagの税関で働くHさんと会う。彼女にG先生から言付けの品を渡す。公的な郵便、民間の流通が整備されていないモンゴルでは、こうしてどこかへ行く人に手紙やものを言付けることが一般的である。午後からは、彼女が付き添い案内していただくことになる。彼女によると、セレンゲ県は農業県であり、全国のジャガイモの7割を生産するとのこと。また、旧ソ連の影響で、キュウリなどの野菜をピクルスにして保存する習慣があり、どの家でも作っている。

 町から北へ、「美しが丘」へと向かう。途中、旧ソ連によって建設され、既に閉鎖された木材工場跡地をみる。ダルハンからここへ来る途中においても、旧ソ連による缶詰工場跡がみられたように、旧ソ連は、この地域にそれなりに投資をし、経済的関係もより緊密であったようである。しかし、モンゴルの市場経済化以降、旧ソ連との関係は薄れ、工場も閉鎖、ロシア人も流出し、ダルハンの町では、ロシア料理店もなくなってしまったわけである。

 国境に到着。ゲートにて許可証を提示し、ゲートをくぐる。前方にもうひとつのゲートがあり、右手に監視塔が聳える。車を降りて、左手の丘を登る。この丘を「美しが丘」と呼ぶ。10分ほど登り、丘からつきでる岩の先端にわたる。まさに絶景。緩やかな山並みの中、南から流れるオルホン川と南西から流れるセレンゲ川が合流し、蛇行しつつ北方、ロシア領へと流れていく。川面は氷で白く覆われ、これまたなだらかな針葉樹の生えたロシアの山並みへと消えていく。川に沿って鉄道が走り、国境検問の建物をみる。昨年訪れたホブト周辺の荒々しいゴツゴツとした男性的な風景とは異なる、やさしく包み込むような女性的な風景。ダルハンからここまでの車窓の光景もしかりである。

 後ろ髪を引かれる思いで美しが丘を後にして、国境の町Altanbulagへ。Hさんは毎日、ここの税関に出勤している。彼女の計らいで、税関事務所の建物を案内してもらう。モンゴルからの出国手続き後の地帯に入る。道路には赤い線が引かれ、その線の向こうはロシア領とのこと。有刺鉄線で囲まれた幅50mほどの緩衝地帯に銃をもったロシア兵をみる。道路の向こうにはロシア側の国境施設、そしてその左に教会の建物がある。冷戦時代のヨーロッパに存在し、そして今では消え去った国境の姿をそこにみる。

 ここにおける国境貿易においては、ロシアから石油、食料品、衣料、ペンキ、木材、壁紙などの建設資材を輸入し、銅、肥料、肉、肉製品を輸出しているという。輸出が輸入の9割を占め、輸入超過である。1992年の市場経済化以降、貿易量は伸びたが、1997年にビザ取得が義務づけられて以降、停滞している。検問脇に、自由貿易地区を構築する計画があるとのことである。

 AltanbulagからSuhbaatarにかけて草で覆われた広い谷を道路は走る。その草原の真ん中に、泉がある。今の季節は凍っており、直径50mほど、中心で50cmほどの高さの椀状の氷で覆われている。飛び跳ねると、背の高さほどに水が噴出するという。かたわらに大岩があり、モンゴル文字が書かれている。チンギスハーンが嫁として望む女性をこの地でみつけたという文を残しており、セレンゲ県80周年記念として、その文を刻んだ石碑をここにおいたとのこと。

 同じBuur河谷の緩やかな南向き斜面に居を構えるゲルを訪ねる。ゲルの周辺に羊の群れ。ちょうど生まれたばかりの羊、山羊を目にする。ちょうど出産シーズンがはじまり、これから忙しくなるとのこと。このお宅では、2家族4人で羊900頭、山羊100頭の他、牛、馬を飼っている。国より1000頭の家畜を飼うものに与えられる賞を受けたという。一般的に進展しているといわれる羊から山羊への移行はしていない。というのも山羊からのカシミアも、羊から得られる毛皮、乳製品、肉を加えるとそう価格が変わらないからであるとのこと。全体的にこれら全ての価格が下落し、遊牧民の暮らしは厳しくなっているとのことであった。借金をしている遊牧民が増えており、彼らはとりわけ大変だろうと指摘する。

 ちょうど忙しくなるシーズンなので、娘さんが手伝いに来ていた。彼女はダルハンの大学で日本語を学び、日本語の教師をしていたが、一年前に、夫の仕事の関係で、エルデネットに越した。エルデネットでは日本語教師の職がなく、現在は仕事をしていない。日本語を生かした仕事をしたいという。彼女には3人の弟がおり、その真ん中は歌手として現在韓国に滞在している。彼の写真が大きく掲げられ、兄弟がとった勲章が飾られている。遊牧民も、子弟に対して積極的に高等教育を受けさせようとしており、教育熱心であるようだ。

 Hさんが自宅へ招待したいとのことで立ち寄る。社会主義時代の5階建て住宅で公務員宿舎となっている。部屋の壁には絨毯が飾られる。キャンディの入った器、アルルなどの乳製品のお菓子を盛った器、旧正月に飾ったお菓子の入った器がだされる。

 彼女は3年前にオプト県から転勤してきた。大学では元来造園を学んだという。したがって園芸には関心をもっており、郊外に庭付き別荘を購入し、そこで井戸を掘り、野菜や果樹を栽培している。その他、友人と共同でも土地を所有している。こられの土地の確保に当たって、税関に勤務することが有効に使えたという。果樹としてチャッツラガンを千本植えた。苗ではなく実生で、土がよいからかよく伸びたとのこと。今年は、ビニルハウスでミニトマトとキュウリに挑戦してみたい。5月からは、別荘に引っ越してそこで暮らすつもりである。また、退職後もこの地で両親を呼んで暮らしたい意向である。子供らは独立してランバートルに暮らしているが、妹の息子や他の親戚の子供の面倒もみている。

 彼女の妹Oさんは、日本に2年間、働いていたことがある。日本人が来たと言うことで同行してくれた。日本では不法労働で、埼玉で弁当づくり、千葉でタマネギの皮むきに従事していた。「警察をみるたびにひやひやしていた」、「警察に踏み込まれて強制退去させられた」と明るく話してくれる。彼女のように不法労働するモンゴル人は多いという。彼女は料理好きで、我々のために、牛肉でつくったポーズと、自家菜園で採れた青トマトとキャベツのピクルス、山菜のピクルスを用意してくれた。自分で安全な野菜をつくる、ポーズに付け合わせで野菜をつけるなど、バランスのとれた食にこだわりをもつ層はモンゴルにおいても着実に存在する。

 帰り際、Hさんの別荘に立ち寄る。日も暮れて風も強まり、穏やかな昼間とは打って変わって寒々しい。チャッツラガンは根付き、野菜をつくるという区画も耕起されていた。軒先に花壇を配した母屋とは別にキッチン・ハウスが設けられている。ヨーロッパそして日本でもみられる「農村居住」と同じ?

 ダルハンのホテルに着いたのは7時半。Kさんと合流し、夕食にでる。ドリンクバー、ステージのあるアメリカンなレストラン&パブ。マッシュルームスープにツナピザ。店内は学生らしき若いグループが多い。ステージではライブが始まる。吹雪く中、ホテルに戻る。今晩も階上のレストランでパーティー。が、今晩は早くに終了。

3月8日

 Amarbayasgalantの寺院に向かうべく、7時30半より朝食。のつもりが、食堂に行っても用意がされていない。昨晩の宴の後が残されたまま。10分ほど待ってようやく朝食となる。パン3枚、サラミ3枚、少しのキュウリとミニトマト、そしてバターとジャム。

 チェックアウトをし、いざ出発というところで、運転手が今日の日当として5万Tを要求してくる。我々の理解では、ガソリン混みで3日分15万T、今日は遠出をするのでガソリン代として5万Tプラスして20万Tを払うことで合意をえていた。彼はさらに5万Tを支払えと言う。「では、ウランバートルに帰りましょう!」というKさんの一言で、即座にウランバートルに戻ることとなる。人の良さそうな運転手だが、後味の悪さが残る。

 ウランバートル行きのバス停に行くと、バスはすでに停車中。我々が車を降りると、何人もが取り囲んでくる。ウランバートルまでの白タクの勧誘であった。バス料金は6千T、白タクであれば一人1万T、まけろというと、通常は1万2千Tという。バスを止めて白タクで行くことにする。車に乗り込むと、小柄な運転手は、何やら書類をもって建物の中に消えていきなかなか戻ってこない。保険の手続きをしているとのこと。無許可の営業でもないらしい。

 8時30分に出発。運転手は、携帯電話をかけながら猛スピードで車を飛ばす。彼は、ホブト出身であり、旧ソ連のウクライナに1977年から82年にかけて5年間、エンジニアの勉強に行っていたという。帰国後、17年間、水道工事の仕事をしていたが、運転手の仕事の方がよいと鞍替えした。月にダルハンとウランバートルを20往復する。

 ダルハンをでて南へ向かいしばらくして、左手に工場コンプレックスをみる。運転手によると、社会主義時代の国営農場の後とのこと。国営農場は、民間に分割して払い下げられて、個人農場が設立されている。土地税を払いつつ、農業に新たに参入している会社、個人は多いらしい。草地の中に方形の耕地をここそこにみる。小麦畑で、灌漑施設はなく天水で栽培されている。中には、数百ヘクタール規模の大規模なものもある。また、幅約20m長さ約20mの耕起地がゼブラ状に並ぶところも見受けられる。2年1作が行われており、耕起地の間は休耕中であるとのこと。このダルハン県では、小麦の他、ジャガイモや野菜が栽培されている。

 運転手によると、景気が悪いと言ってもなにがしかの仕事はある。個人が努力すれば国もよくなるであろう。とはいえ、役人は自分の利益ばかりを追求している。彼を含めて、一般のモンゴル人が持つ政治家や役人に対する不満は相当なものであると感じる。

 11時半にウランバートルのホテル着。寺院に行くべく、ホテルにて作ってもらった弁当を昼食とする。午後はホテルにて休憩、そして記録の整理。KさんとO君はウランバートル市街へでかける。

 3月8日はモンゴルでは「女性の日」。女性に花を贈る習慣がある。町では花を抱えた男性を目にした。Kさんの命により、O君に花屋にてバラを買ってきてもらい、KさんとMさんに渡す。夜は、近くのチンギスハン・ホテルにて中華。