オーストリアにはカンガルーはいない
寺尾 格
(2000年12月2日に行われた世田ヶ谷パブリックシアター・シンポジウム「オーストリア現代演劇」のための資料パンフレットより)
観光都市ウィーンの中心部では、おなじみの名所の絵葉書、絵皿、文鎮、ワッペン、キーホルダー等々、旅の思い出を掻き立てる様々なスヴェニールを至る所で売っている。若者向けには、I L?ve Vienna. などとプリントしたTシャツも飾られていて、その中にはカンガルーがウィンクしている図柄もあった。そして「オーストリアにはカンガルーはいない」と英語でプリントされている。オーストリアをオーストラリアと勘違いするのは、どうやら日本人だけではなさそうである。しかしドイツ語でエスターライヒ(東の帝国)と呼ぶように、東欧とのつながりの強いオーストリアは、アメリカ経由の「西欧」情報に満ち溢れている日本では、しばしばオーストラリアと混同されてしまう。
そのような微笑ましい初歩的ミスは論外としても、オーストリア演劇となると、事情はカンガルーと似たりよったりではないだろうか。問題は二つある。ひとつはドイツ語の問題であり、もうひとつはドイツ演劇の問題である。どちらも、ドイツに対するオーストリアのアイデンティティに関わる。
統一後8000万人の大国となったドイツに比べると、オーストリアはわずか800万人にすぎず、ほとんどドイツの州レベルである。従って経済的にも文化的にも、オーストリアはドイツと実質的には一体化せざるをえないのだが、しかしそれ故に、固有の国、固有の歴史、固有の文化という形式的な相違に敏感にならざるをえない。とりわけハプスブルク帝国の栄光の歴史を観光資源としている古都ウィーンでは、ヴィーナリッシュと言われるウィーン方言に対して、屈折したプライドが保たれている。教科書ドイツ語の発音で聞き返す私に向かって、カフェのウェイターは慌てず騒がず「それは方言だ」と堂々と言い返すのである。
伝統的なウィーン演劇の中核をなすのが、ウィーン民衆劇であるが、これがガチガチのウィーン風発音で演じられ、外国人の手に〔耳に?〕おえる代物ではない。幸いなことに近年、ライムントとネストロイの主要作品は翻訳され、日本語でも読めるようになったものの、軽妙なやりとりに爆笑の連続の観客席で、外国語に耳を澄ましている身には、いささか居心地の悪さを感じざるをえない。
しかしウィーン演劇の中心であるブルク劇場では、ウィーン民衆劇こそウィーン方言を使用するが、それ以外の作品では完璧な「正当ドイツ語」を聞くことができる。それがハプスブルク以来の「国民劇場」としてのブルク劇場のプライドである。ここで「国民」とは、プロイセンとドイツ統合を張り合ったハプスブルク家の文化政策上の宣言でもある。というのも、ヨーロッパにおいては、何よりも劇場こそが、都市の文化レベルが集約された施設として、重要な象徴的機能を持たされているからであり、とりわけウィーンにおけるブルク劇場の重みは、ほとんどウィーン人のアイデンティティと化している。例えば「寒い冬でもブルク劇場の暖かいのは何故?」と、都市ガス公社の宣伝コピーに使われるほどである。ビロードの絨毯にシャンデリアがまばゆく輝き、着飾った人々が次々と集まる劇場の独特の華やかさは、ヨーロッパの長く、暗く、寒い冬の夜を耐えるための生活の知恵でもあろう。社交とは、決して有産階級のためだけにあるわけではない。オーストリアの中心であるウィーンの、そのような華やかさを体現しているのが、オペラ座であり、樂友協会ホールであり、そしてブルク劇場なのである。ブルク劇場は、古典作品を中心に、ドイツでも屈指のアンサンブルとレパートリーの豊富さを誇る。
さて、1989年のベルリンの壁崩壊は、ドイツ戦後史の最大の転換点だが、現代演劇に関しては、日本でも「小劇場演劇」が従来の演劇スタイルを変えるきっかけになったように、ドイツでも1960年代終わりから1970年代に台頭した「演出家演劇」以前と以後とで、大きく演劇スタイルが変化している。共通するのは、日本で「全共闘世代」と言われる、いわゆる「68年世代」の活躍である。戦争責任に関する日本の無責任ぶりと対照的に語られることの多いドイツだが、実は、表面的なナチ批判の建前にもかかわらず、劇場の運営や上演形態、作品解釈に関するドイツ戦後演劇は、戦前の諸制度やナチ協力者との「宥和」を早々に果たしている。何よりも都市文化の中心たる劇場の復興こそが、敗戦の瓦礫からの復興なのだ、との思いが錦の御旗となって、実質的な無反省を隠蔽する結果を生み出したわけである。それ故「68年世代」の批判意識は、まずは、そのような旧態依然たる制度に対する批判なのだが、それのみならず、古典作品の読み直しと批判的受容に基づく新しい演出と演劇製作をも追求し、とりわけペーター・シュタインを中心としたシャウビューネに代表される斬新な演劇空間のあり方が、その後のドイツ演劇の活性化に非常に強い影響を与えていた。
大きく変貌し、若者を中心に活性化しつつあった70年代以降のドイツ現代演劇に比べて、ウィーンの演劇は、特に中心に位置するブルク劇場では、フォルクス劇場や小劇場での幾つかの試みにもかかわらず、相変わらず名優と名作による教養主義の伝統的舞台作りが中心であり、先鋭な劇作家のイェリネックをして、「若者がブルク劇場に行くとは思えない」と言わしめるような状況で、現代演劇という観点でのブルク劇場は、語られるべき内実をほとんど持っていなかったのである。
ドイツにおける先鋭な批判意識に基づく緊張した演劇製作とは対照的に、ぬるま湯のようなウィーン・ブルク劇場の演劇は、戦後オーストリアの永世中立や、保守・革新の均衡による高度な社会福祉、基幹産業の国有化など、一見進歩的な保守性と強固なカトリック信仰に支えられていた。これを一言で「ゲミュートリッヒカイト(心地よさ)」と表現できる。難しい問題は横において、美しいワルツでも聞きながら、楽しくワインでも飲もうではないか・・・ということである。
1968年世代を代表する演出家のクラウス・パイマンがブルク劇場の総監督に就任したのが1986年である。上品な保守的心地よさにたゆたっていたオーストリア・ウィーンに、突如、騒がしい北ドイツ人が現れ、よりにもよってウィーンの精髄とも言えるブルク劇場の舞台で「下品な」「現代演劇」などという「際物」が上演される・・・と、保守的な新聞・雑誌・政治家・評論家がこぞって、反パイマン・キャンペーンを張った。しかしパイマンは、例えばトーマス・ベルンハルトによるオーストリア罵倒のモノローグをぶつけて、わざわざ火に油を注ぎかける。挑発は、68年世代のパイマンのお家芸である。
パイマンによるブルク劇場は、従来からの古典作品に加えて、ペーター・ハントケ、トーマス・ベルンハルト、ペーター・トゥリーニ、ヴェアナー・シュヴァープ、エルフリーデ・イェリネックなど、オーストリア現代作家の作品を次々と舞台化し続けた。作家の方でも、パイマンのために、ブルク劇場での初演を意識した作品を提供しつづけた。そこでは、何よりも戦後、曖昧にし続けてきたファシズムとの関わりが批判的に吟味され、「オーストリアは、ドイツ・ナチズムに強制的に併合された被害者である」との神話の嘘が暴露される。歓呼の声でヒットラーをウィーンに迎えたオーストリアは、戦後、何も変わっていないではないか。そのように挑発的に問題を提起する現代作品と、時に難解な演出は、ブルク劇場の古くからの常連を苛立たせる一方、若者はブルク劇場の天井桟敷から拍手喝采する。
数々のパイマン批判キャンペーンやスキャンダルにもかかわらず、パイマンの人気は少しずつ上昇する。内部的にはギクシャクしながらも、ブルク劇場が徐々に現代演劇に目覚め、観客も育って行く。もともと質量共に定評のあるブルク劇場のアンサンブルが、長年にわたって蓄積してきた実力を新作に投入するのであるから、その充実ぶりには目を見張るものがある。ブルク劇場の活性化は、ウィーン演劇全体の活性化にもつながり、国立オペラ座でのオペラ演出も、ドイツほどではないにせよ、徐々に現代風の演出が現れてくる。ドイツ戦後演劇の転換点が1970年頃であったとすれば、オーストリア演劇の転換点は、まぎれもなく、パイマンがブルク劇場に登場した1986年である。
ブルク劇場の活性化は、ウィーン演劇のみならず、ドイツ演劇全体にとっても非常に大きな意味を持っている。それは、特にドイツ統一以後、90年代のドイツ演劇を代表する劇作家の中枢を、上述のオーストリアの劇作家たちが占めているからである。90年代のドイツ演劇を作品面から引っ張っていたのは、パイマンのブルク劇場であったと言える。
ただしパイマンは、1999年の6月でウィーンを離れ、ベルリーナー・アンサンブルに移っている。理由のひとつは、「ウィーンの保守化が絶えがたくなった」からであり、事実、翌年の総選挙の結果、オーストリア国民党は、パイマン罵倒の最先頭に立っていたハイダー党首率いる自由党との連立政府を樹立した。「右翼」自由党を懸念するEU連合の警告は無視され、ナチズム擁護を公言するハイダー党首は意気軒昂で、大統領を狙っているとのうわさもある。かつて1986年にワルトハイム国連事務総長が、ナチ協力の疑惑にもかかわらず大統領に当選し、諸外国から総反発を受けながらも、国内では人気が上がったのと同じ構図である。現実のファシズム的可能性に無知なまま、内部評価が閉塞的に過剰な熱狂へと進む危険性は、ファシズムの基本的な土台となる。かつてベルンハルトが罵倒し、今、イェリネックやトゥリーニが問題にしつづける「何もかわらないオーストリア」が、そこには明瞭に見えている。しかしウィーンでは毎週、反政府デモが続けられ、例えばウィーン演劇祭では、亡命外国人による外国人排斥反対パフォーマンスがオペラ座の横で繰り広げられたりもしている。パイマンによるウィーン演劇活性化の14年は、無駄であったと言うのは、いささか早計かもしれない。
ただ、最初に触れた「カンガルー」は、ドイツ語の俗語表現では「空っぽの財布」、つまりは「食いつめ貧乏人」という意味もある。その方向で深読みすると、自ずと出稼ぎ外国人のような奴はオーストリアにはいない、いらない、出て行け・・・そんな連想が頭に浮かんでくる。いやいや、あれはもちろん無害で微笑ましいウィット表現なのだ、とはわかっているのであるけれども・・・